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コラム

教育への危機感と現社会の価値観

作成日:20190625  テーマ1:仕事  テーマ2:  テーマ3:

6/25のYahooニュース:「ノーベル賞・野依博士「本気で怒っている」日本の教育に危機感」について

面白い記事だったので取り上げてみようと思います。 本記事の一部を抜き取っていますので、ニュアンスや誤解があるかもしれません。 当該記事をぜひ読んでみてください。

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●科学は客観性の高いものですが、人々の営みとか自然観、人生観、死生観などの、まっとうな主観を醸成します。いたずらに経済的利益追求に貢献するだけではなく、これが本当の意味での科学の一番大事な役割なのです。

そもそも“科学”それ自体が人間の創造したものです。 従って、いかに客観性を追い求めても、その最終目的は人間によって創られた理想像に向かうしかありません。 ただ、その理想像は独りよがりのものであってはなりません。 人類にとっての根源とでもいうか、万人に受け入れられる知の理想像こそが科学最終目的になりうるもののはずです。 その目的に向かうためには、そこへ向かう道筋 = ストーリーを創る必要があります。この部分はストーリーを立てる人の主観によって創られます。次に、そのストーリーを証明するための根拠となるデータをそろえていくことで、そこに客観性が与えられ、万人に受け入れられる法則、理論として認められることになります。このプロセスには時間が必要ですし、必ずしも経済的なメリットが得られるわけではありません。しかし、こういったプロセスが積もり積もって初めて新たな世界が開けてくるものです。それは、次の言葉に集約されています。

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●ニュートンは「私がかなた遠くを見渡せるのだとしたら、それはひとえに巨人の肩に乗っていたからです」と言っています。ニュートン自身もすごい科学者でしたが、ガリレオやケプラーの業績の上に乗っていたからこそ「遠くが見えた」と。科学の本質は知識の積み上げです。だから、いつの時代にも若い人が未知に挑む。最高水準の研究をして、新しい知に挑んでいる。

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●今の大きな問題は、学びが消極的な点。積極的に定説に対して疑問を投げ掛けたりすることがない。教科書などに書いてあったら、「ああ、それはそうですね」で済ませ、自分で考え「そうじゃないんじゃないか」と、工夫して挑戦しないのですね。

この点は本当に痛切に感じます。 マニュアル通りに動いて、教科書通りの回答をする、そうすれば知識だけに頼ることができ、自分で頭を使う必要もなく、責任をとる必要もなくなります。それでいて評価もされやすいことから、今、金太郎あめ的人材が非常に増えています。そういう人たちの言葉や説明は、実は単語一つ一つはそれっぽくても、つなげて読むと全然意味が伝わらない文章になっています。また、全体の話のつながりが悪く、矛盾点が多いのが特徴です。こいつはマニュアル人間だな、というのは簡単に見抜くことができます。
あとは、なぜなぜを問いかけ続けると必ずぼろが出ます。 ものごとについて自分なりによく考えている人は、なぜなぜを続けると最後はたいてい「そこはわからないけどこういうことなんじゃないか?」という自分なりの考え方を示してくれます。 それに対しマニュアル人間は「そこはこの本に書いてあった、誰それがそういった」というので終わります。ひどい場合は「自分で考えろ」ですね。また、なぜなぜの階層が浅い段階で止まってしまうことも特徴の一つです。 「私がいったんだがらまちがいないんです」なんて答弁した人もいましたが、ヤバ!!と思いますよね。
こういう人にあったったら距離をとるのが一番です。

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●今の大きな問題は、好奇心を持って自ら問う力、考える力、答える力。これらが落ちているということ。なぜそうなるのかというと、社会全体を覆う効率主義、成果主義のせい。しかも実は本当の成果を求めていない、形だけの評価制度は許せない。評価は本来、人や物の価値を高めるためにあるのですが、そうなっていない。問題の全体像をつかみ、自ら考えて、答えを得るというプロセスがなければ、知力を培うことは絶対にできません。

この中の「実は本当の成果を求めていない、形だけの評価制度は許せない。」はまさにその通りだと思います。
今の社会はまさにうわべだけの成果で評価されることが多いように見受けられます。
例えば新しい技術を開発し評価する場合、これまでの技術との対比でしか判断できないのは愚の骨頂です。 新しい技術はこれまでとは異なる価値を提供するから新しいのであって、今までの技術と同じ評価基準では適切な判断は下せません。 特に新しい技術の負の面をどれだけ抜けもれなく洗い出せるかが重要であって、これには想像力が必要です。 想像するためには思考力がなければどうにもならず、知識や経験だけでは太刀打ちできません。 また、負の面について批判だけをしてもダメです。その面をポジティブに変える力、あるいは無効にする力があってはじめて新しい技術は日の目を見ることになります。 新技術の開発はそれだけ労力を要する、ということです。 考えやすいことだけに焦点を当て、本質をも逃してはただの時間の浪費になりかねません。

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●「評価」は「分析」と異なり、本来は客観じゃなく主観です。大学はそれぞれに特色があるので、どういう学生が望ましいかは、みんな違うはずです。文学部と医学部、体育大学と外国語大学、芸術大学、みんな同じわけがない。

これこそがまさに多様性です。 人は各人が持つ遺伝的な性質、育った環境などから様々な考え方を持っています。 それはたとえ双子であろうともです。 そんな中、同じ価値観で人を分類してしまっては、人を工場で大量生産するのと何ら変わらなくなってしまいます。大量生産は均一な品質を低賃金で作り続けることで大量消費を生みました。これを人にあてはめてしまえば、人の大量消費につながりかねません。

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残念ながら、このような価値観を持った世代が世の中を支配するようになっているので、このような局面を打開するのはかなり困難かもしれません。 ですが、それは問題だ!と感じている人も少なからずいます。 今の私にできることは、そういった危機感を感じている意見、情報を発信し、誰かに気付いてもらえることぐらいしかありません。 そこから何かを感じ取ってもらえれば幸いです。

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参考文献